愛川晶のミステリー『ダイニング・メッセージ』の中で、懐石料理の作法の由来についてユニークな説が挙げられます。
- 「なぜ刺し箸(箸で人を指すこと)をしてはいけないのか?」
- 「なぜ迷い箸(どの料理を取るか箸を持って迷うこと)をしてはいけないのか?」
- 「なせ椀の蓋に露(霧吹きなどで吹きかける細かな水滴)がかけられるのか?」
これらは全て懐石料理が誕生した歴史的背景にあるというのです。
懐石料理は千利休が生きた戦国末期に生まれたおもてなしのための料理。武士同士が膳を囲む状況には往々にして食事以外の思惑もあったと思われます。
相手が敵国の人間であれば言うまでもなく、たとえ味方であってもいつ下剋上されるかわからない時勢、食事の際の一挙手一投足に互いがピリピリしていたのではないでしょうか?(ヤな食事だな)
そんな時に、いきなり『箸で自分を指される』なんてされようものなら思わず刀に手が伸びるでしょう。一瞬、出遅れれば目を突かれるかもしれませんから。
箸を持って料理を迷う仕草は『迷うふり』にしか見えなくてもおかしくありません。
嫌い箸(箸を使ってやってはいけない作法の総称)の多くは相手から身を守るために生まれたのだと作者は説いています。
その観点で椀物に露をかけるというちょっと奇妙な作法を見直してみるとその理由が透けて見えてきます。
『(配膳後、運ぶ途中で)椀には誰も手を触れていません。毒など入っておりませんよ』
というサインなのです(調理、配膳する厨房には当然両国の見張りがいてこのタイミングでは良からぬことをする隙はなかったと思われます)。
寡聞にしてこの説の真贋は存じませんが、十分リアリティのある考えだと思います。
もし、食事の作法の理由がこの通りだとしたら現代においては形骸化した無意味なものと言えなくもありません。さすがに今どき、こんなスリリングな食事をする人達はその筋の人でもない限りいませんでしょうから^^;
それでも、嫌い箸は見ていて気分の悪い物です。
その作法の由来は上に紹介した通りだったとしてもそれ以外に『相手を不快にしない』という含みもあったんじゃないかと僕は考えます。
ネットで食事のマナーのニュースが投稿されると必ずと言って良いくらい「うるせぇよ。美味しく食べられればマナーなんてどうでも良いじゃないか。俺は気にしないぞ」といったコメントが付きます。
孤食という単語が生まれて久しくなりますが、こんなコメントを見掛けるとその弊害が出て来てるんじゃないかと思ってしまいます。そしてついつい言い返したくなるのです。
「あなたが気にしないかどうかなんて、どうでも良い。食事をする相手が気にするんだよ」
そう、食事の作法はおしなべてともに食事をする人を不快にさせないために戒められたもの。
作法が生まれた諸説の真贋は脇に置いておいても全ての作法の由来は「誰かと食事をする」という前提のもとに生まれたのだということを忘れてはいけないと思うのです。
2020/03/18 Wed.