テレワークライフ雑感
僕の職場はIT関係だったこともあってわりと早い時期からテレワークっぽいことを体験していました。
テレビ電話を初体験したのはたぶん1990年代中頃だったんじゃないかな。
阪神大震災で交通網もわやだった頃に大阪の会議室から東京の職場の人達と顔を見ながら打ち合わせできるってのはなんとも未来チックで感動しました。
とはいえテレビ会議室は数がとても少なかったのでそうそう使えなかったのですが電話会議は機材があれば普通の会議室でできるのでよく使っていましたね。
けどそれは特定の機材があればできる話だったので在宅ワークをするにはまだまだハードルが高かったのです。
それがコロナ禍の中、ご多分に漏れずうちの職場も一気に在宅ワークにシフトしました。
通勤電車から開放されて思ったこと──これってどこでもドアと一緒じゃん♪
今の今まで打ち合わせしていた人達と「じゃ、よろしくおねがいします」と挨拶を交わして通信を切れば自分の部屋に居る──原理はぜんぜん違うけど実現できていることはどこでもドアと変わらないじゃん。そう思ったものです。
もしもドラえもんに出てくるどこでもドアが発明されたら何が変わるのかちょっと考えてみました。
- 移動の時間を0に短縮できる
- 遠くの人やものに今すぐ触れられる
うん、前者は間違いなく実現できていて僕らはもうどこでもドアを手に入れていると言えます。
後者も意外と良い線いっていると思うんですよ。
お互いの顔をスマホのカメラからライブしながら会議をするなんてのは出来ています。
今のマンションを探す時にはインターネット内覧を体験しました。
これは不動産屋さんが物件の中をスマホのカメラで中継しながら解説してくれるサービスで「あ、もうちょっと上を見せてください」とか「その棚をちょっと開けてみて」なんてお願いするとカメラを動かしてくれるという。
はっきり言って横浜から3時間近くかけてきて現物を見るのと大差ないことが0アワーでできちゃいました。
あとは技術の問題じゃないかな。
カメラの精度が上がって、バーチャルリアリティーの技術が発展して、不動産屋さんがやってくれていることをAIとドローンが代替わりすれば完全に僕はその場にいるのとなんら変わらない体験ができるようになると思います。
3Dプリンターが進化すれば遠くにある物品や料理でさえ手元にお取り寄せすることだってきっとできるようになります。
インターネットとタイムマシン
2008年頃だったかな。ニコニコ動画のゲーム実況にハマりました。
ゲーム実況とは動画の作成者がテレビゲームをプレーしながらリアクションしたり全然関係のない雑談をしたりするのを視聴して楽しむスタイルの動画です。
ニコニコ動画の大きな特徴のひとつにその動画に直接コメントを入れられるという機能があるのですがそのコメントは動画にかぶさる形で右から左に流れていきます。
人気のある動画になるとコメントが多すぎて肝心の動画が見えなくなったりします(をい)。その現象は弾幕なんて呼ばれたりしています^^
僕がゲーム実況にハマった理由はライブ感でした。
見も知らない人がゲームをプレーしている。それに対して何十、何百という人がツッコミを入れたり、笑ったり、応援したり、感動したり──あたかも巨大なライブ会場で大勢の観客と盛り上がっているような一体感はなんとも熱い体験でした。
けどね、ちょっと冷静に考えればわかることですが「生放送」と呼ばれるスタイルでない限りその動画をアップロードしたのは僕が視聴するより過去ですし投稿されているコメントも投稿された時間はバラバラなんですよね。
それを今まさに一緒に体験しているように錯覚させてくれる──それが動画サイトの魅力の一つだと思います。
ゲーム実況をきっかけに僕は動画サイトにハマっていったのですが存在するはずの時間差を感じさせないライブ感に不思議な気持ちになりました。
伝説級のプロ野球の名ゲーム。
大好きなアーティストの伝説のライブ。
ドラマの名シーン、はるか昔のコマーシャル映像、ニュース、バラエティー番組……
僕は何を見させられているんだろう。いや、僕は何を観せてもらっているんだろう。
本当ならその場にいなかった僕が観たり聴いたりすることができなかった光景を自由自在に見せてもらっている。
これはもしかして手に触れられないだけで観たい過去に一瞬で跳べるタイムマシンなんじゃないか。
そう思う時があります。
どこでもドア同様にバーチャルリアリティーの技術が進化すれば作り物ではない実際の過去を更にリアルに見聞きできる時代がほどなくやって来るような気がしてちょっと怖い気分です。
僕らはもうドラえもんと暮らしている
テレワークを機に僕らはどこでもドアを手に入れたのかも知れません。
YouTube やニコニコ動画は過去を自在に行き来するタイムマシンになりうるんじゃないでしょうか。
夢想とも妄想ともつかない考えではあるのですが、なんだか頭ごなしに否定するのも違う気がするなぁと思う今日この頃。
僕らはもうドラえもんと暮らしているのかも知れません。